〈良いことを無意識にする〉人は、

〈悪事を無意識にする〉危険が潜んでいます。


〈悪事を悪いことだ〉と意識しながらする者は、

〈改心すれば善人となる〉ことが出来ますが、

無意識で悪事をする人は、

〈善悪の良し悪し〉がわからない人ですから、

他から改心させる方法がないものです。


良いことは無意識より意識的にしましょう。

この世の中で一番恐い人は、

〈善と悪〉の境目がわからない人達であります。

儲け話しを持ち込まれて、

それをそのまま友人に紹介しました。


後日、その友人から

「あなたが紹介したから騙された」と

私が加害者のごとく言われましたので、

その被害者に「良いと思い紹介しただけだ」と、

どんなに弁解しても納得しません。

犯人は〈儲け話を持ち込んだ主〉ではなく、

紹介者の私を信用していたからです。

だから、

儲け話を軽々しく友人に紹介してはならない。

〈偽善者だ〉と言われている人も

たとえ〈善行の真似ごと〉でも続けておれば

心もこれに馴染んで〈善人〉と

言われるようになります。

それとは逆に悪い人のみに同調していれば、

はじは〈善人〉と言われていた人であっても

自然に心もこれに馴染んで〈悪人〉と言われる。


〈善人屋〉の看板を揚げれば、

はじめは〈悪徳商人〉であっても、

いずれそれに馴染んで〈善人屋〉と

言われるようになります。

人間それぞれ〈善〉と〈悪〉の双方の情があります。

ものごとに対しての感情が〈悪〉を醸し出します。

ものごとの対しての理性は〈善〉を醸し出します。


己の感情を殺すことは惨めなことですが、

その惨めさを堪え忍ぶのが理性であります。

理性を堪え忍ぶことは苦しいことですが、

何れそのような苦しさに対し

神が忘却というものを与えてくれます。


世の中で一番惨めなことは、

己の心に反する行動に追い込められたときです。

この世の中で一番恐い人は

〈善悪〉の境界線がわからない人です。

そのような人に対しては、

こちらのほうで〈善悪〉の境界線を明確にして

決して近寄らないことです。

何故ならば、

愚か者は、たえず悪の境界線近くでうろうろして

こちらが油断する隙を絶えず窺っているものです。。


愚か者は、この世に〈善の世界〉という

楽園があることを知らないで、

この世は〈己の世界のみ〉と思っているのです。

高い山から低い丘の上はよく見えるものです。